コーシーの略歴*1)
『解析教程』の著者オーギュスタン・ルイ・コーシー(Augustin Louis Cauchy)はバスチーユ監獄の奪取の翌月,1789年8月21日にパリで生まれた.1793年に始まった恐怖政治の間は貧しい生活を強いられたため,コーシーは生涯病弱であった.幼少期の教育は教養ある父親から受けたが,父は敬虔なカトリック信者で,とりわけ宗教を熱心に教えた.コーシーは子供のころから数学に才覚を示し,ラプラスやルジャンドルを驚かせた.1802年コーシーはパンテオン中央学校(Ecole centrale du Panteon)に入学し,1804年のコンクールにおいてラテン語の散文やギリシャ語の翻訳などでグランプリを獲得し,早くも非凡な才能を示した.1805年エコール・ポリテクニク(Ecole Polytechnique)に入学し,この学校でラクロア(Sylvestre-Fran,cois Lacroix),アシェット(Jean-Nicolas-Pierre Hachette),プロニ(Marie-Riche de Prony)らに解析学・画法幾何学・力学を学んだ.さらに1807年には土木学校(Ecole des Ponts et Chausees)に進学し,土木技師になるために2年間勉強したが,そこでの成績が優れていたため,在学中にウルク運河(Canal de l'Ourcq)やパリの水路の建設に技師の見習いとして派遣された.
土木学校を卒業するとナポレオン港の工事に当たるためにシェルブール(Cherbourg)に向かった.このとき4冊の書物,ラプラスの『天体力学』*2),ラグランジュの『解析関数論』*3),トーマス・ア・ケンピス(Thomas a Kempis)の『キリストにならいて』,ウェルギリウス(Publius Vergilius Maro)の詩集を携えて行った.1810年初めから約3年間にわたって技師として働いたが,本格的に数学の論文を書くようになったのはこの頃からである.多忙な仕事の間に時間を見つけては数学の研究に没頭し,論文「多面体に関する研究」*4)では,正多面体(凸状でないものも含む)は九つしかないことを証明し,多面体の頂点の数S,面の数F,辺の数Aの間に成り立つオイラーの定理S+F=A+2の一般化を論じた.また1812年には置換論に関する初期研究を行い,二編の論文*5)を学士院*6)に提出した.
1812年末にシェルブールからパリに戻ったコーシーは科学者になることを決心し,科学者としての地位を求めたが,当面は土木局(Ponts et Chaussees)の技師として働かなければならなかった.1814年に学術振興会(Societe Philomatique)の会員に選出され,ようやく科学者としての一つの地位を得た.コーシーは解析学の分野で優れた業績を残していくことになるが,この分野における最初の論文が1814年に「定積分について」*7)というタイトルで現れた.また,1815年の論文「深さが不定の重流体の表面における波の伝播の理論」*8)は学士院賞を受けた.
コーシーは1816年にエコール・ポリテクニクの教授に就任し,学士院の会員にも選出された.エコール・ポリテクニクで解析学と力学の講義を担当する他,コレージュ・ド・フランス(College de France)やパリ大学理学部でも数理物理学や力学を教えた.
1830年,7月革命でシャルル十世(Charles X)が追放され,ルイ・フィリップ(Louis Philippe)が即位すると,王党派のコーシーは妻子を残して亡命した.一旦はスイスへ向かったが,1831年サルデーニャの国王カルロ・フェリーチェ(Carlo Felice)の特別な計らいで,トリノ大学に職を得て,1833年7月までこの大学で講義を行った.その後,亡命したシャルル十世の要請でプラハへ向かい,シャルル十世の孫ボルドー公(Le duc de Bordeau)の家庭教師を1838年にボルドー公が18歳になるまで務めた.
1838年10月,コーシーは8年間に及ぶ亡命生活を終えてパリに戻った.フランスを離れている間に,エコール・ポリテクニクの教授のポストとパリ大学理学部の助教授のポストを解任され,土木局の技師の資格も失ったが,数学の研究意欲は旺盛で,学士院の週報(Comptes rendus)に次々に論文を送った.印刷費が嵩むのに困った学士院は寄稿論文のページ数を4ページに制限しなければならないほどであった.帰国後は長い間教育職から離れていたが,1849年になってようやくパリ大学理学部の教授に任命され,再び講義をするようになった.しかし研究の勢いは晩年に向かって次第に衰えていった.
コーシーは科学上の業績を数多く残したが,他方では熱心なカトリック信者としてイエズス会を擁護し,生涯の最後まで慈善活動を精力的に行った.政治的には常に王党派であり,その姿勢を頑固に貫いた.1857年5月23日死去,68歳であった.
コーシーが生涯にわたって書いた論文の数は800近くにのぼる.コーシーの科学論文は『コーシー全集』*9)として1876年から編集が開始され,第一巻が1882年,最後の巻が1974年にようやく出版された.したがってこの全集の刊行には98年の年月が費やされたことになる.『コーシー全集』は第一系列が12巻,第二系列が15巻の全27巻である.
『解析教程』について
コーシーの『解析教程』の原題はCours d'analyse de l'Ecole royale polytechnique(エコール・ポリテクニクの解析教程)である.原題が示す通り,エコール・ポリテクニクでのテキストとして企画されたものだが,出版されたのは『第一部 代数解析』(1821)だけである.出版当初の版*10)(以下原典版と呼ぶことにする)は「序言」8ページ,目次6ページ,正誤表2ページ,本文576ページから成り,ビュール社から出版された.このビュール社というのはコーシーの妻アロイズ・ド・ビュール(Aloise de Bure)の実家が営む書籍出版社である.エコール・ポリテクニクでの解析学の講義をもとに,微分積分を学ぶ前の準備的な内容をまとめたのが『代数解析』だが,あまりに長大なために,エコール・ポリテクニクのテキストとして実際に使われることはなかった.コーシーは早期から微分積分を学べるよう講義の改善を求められた.そこで『解析教程』の続巻を諦め,その代わりに1823年8月に『無限小計算講義要論』*11)を刊行したのである.コーシーが『解析教程』をどんな構成の書物にしようとしていたかは定かでないが,後年出版された『微分計算』*12)の前書きの冒頭で
「1823年に出版した『無限小計算講義要論』の部数が尽きるのを機に,私はこれを二巻分冊に改めることにした.その一方は微分計算について,もう一方は積分計算についてである.」
と語っていることから,『解析教程』は『第二部微分計算』,『第三部積分計算』などと続く大部の書物を構想していたのではないかと思われるのである.
コーシーは『解析教程』の中で解析学の基礎となる事項について明確な定義を与えて,解析学を自立した体系にしようとした.これらの部分を本文から抜き出して見よう.
「我々は常に大きさの絶対測定から数を取り出して,算術で用いられる意味において数という呼び名を採用する.また,正あるいは負の実量,すなわち前述の数に符号+または-をつけて,量という呼び名を当てることにする.(…中略…)量の基部をなす数を量の数値,同じ数値と同じ符号をもつ量を等しい量,数値については等しいが逆の符号がついた二つの量を反対の量と呼ぼう.」(序論)
コーシーは数と量を区別して扱っており,今日数として扱われているものがコーシーでは量である.数値というのは今日の実数の絶対値を意味する言葉である.
「互いに異なるいくつもの値を次々に受け取ると考えられる量を変化量と名づける.」(序論)
「ある同一の変化量に次々に割り当てられる値がある一定の値に限りなく近づき,最後にはどれほどでも望むだけわずかな違いしか見られないようなとき,この値は他のすべての値の極限と呼ばれる.」(序論)
変化量に次々に割り当てられた値a_n(n=1,2,3,…)が一定の値aに近づくことを今日風に表現すれば,
「任意の正数εに対して,ある自然数n_0が存在してn≧n_0となるすべてのnに対して|a_n-a|<εとなる.」
ということになるが,コーシーは極限の定義においてこうしたε式の論法をとっていない.しかし第2章§3定理Iを見ると,極限を表現するのに必要に応じてε式の議論を実行していて,すでに現在のような論法を確立している.
「同一の変化量の連続する数値が,与えられたどのような量よりも小さくなるように,際限なく減少するとき,この変化量は無限小あるいは無限小量と名づけられる.この種の変化量は0を極限にもつ.」(序論)
オイラーは『微分計算教程』*13)の中で「無限小量は0に他ならない」と述べ,無限小量を0と同じように考えていたが,コーシーはこの点で明らかに異なっている.コーシーは際限なく減少する変化量を無限小量と定義して,その極限が0となることを明言している.
「いくつかの変化量が互いに関係をもち,これらの変化量の一つの値が与えられると,そこから他のすべての変化量の値を導くことができるとき,通常,いろいろな変化量がそれらの一つを用いて表されている情景が心に描かれる.この場合,その一つの変化量は独立変化量と呼ばれる.そして,独立変化量によって表される他の諸量は,この変化量の関数と呼ばれものとなる.
いくつかの変化量が互いに関係をもち,それらのうちいくつかの変化量の値が与えられると,そこから他のすべての変化量の値を導くことができるとき,いろいろな変化量がそれらのうちのいくつかを用いて表されている情景が心に描かれる.この場合,それらのいくつかの変化量は独立変化量と呼ばれる.そして,独立変化量によって表される残る諸量は,これらの変化量の関数と呼ばれるものとなる.」(第1章§1)
このような関数概念はすでにオイラーに現れていて,コーシーはそれを踏襲している.しかし関数の連続性については,ただ一つの解析的表示式で表される関数を連続関数と呼んでいた当時の概念から脱却し,まったく新しい定義を打ち出した.
「f(x)は変化量xの関数とし,与えられた二つの限界の間にあるxの各々の値に対して,この関数は常にただ一つの有限値をとると仮定しよう.これらの限界の間に挟まれるxのある値から出発して,変化量xに限りなく小さな増加量αを与えれば,関数自身は増加量として差
f(x+α)-f(x)
をとるが,この差は新たな変化量αと,xの値に同時に依存する.このとき,これらの限界の間にあるxの各々の値に対して,差
f(x+α)-f(x)
の数値がαの値とともに際限なく減少するならば,関数f(x)は変化量xに指定された二つの限界の間でこの変化量の連続関数となる.言い換えれば,与えられた限界の間で変化量の限りなく小さな増加が関数自身の限りなく小さな増加を常に生み出すならば,関数f(x)はこれらの限界の間でxに関して連続となる.」(第2章§2)
直観に頼っている部分が残されてはいるものの関数の連続性について明確な定義を与えて,厳密性を高めたところは注目に値する.この連続性の定義はのちにヴァイエルシュトラス(Karl Weierstrass)によってさらに厳密化が進められε-δ論法がもたらされたとされているが,この連続性の定義を第2章§3定理Iの証明の中でコーシーが述べた通りの論法で言い直すことを試みれば,
「望むだけ小さな数をεで表そう.αの値が減少していくと,差
f(x+α)-f(x)
は極限0に収束していくのであるから,数δに十分小さな値を与えて,αの数値がδに等しいか,それより小さいとき,問題となっている差が限界
-ε, +ε
の間に常に挟まれるようにすることができる.」
となる.こうして見ると,コーシーはすでにε-δ論法を確立していたと言っても過言ではないであろう.
このように,コーシーは『解析教程』の中で解析学の基礎を築いた.それゆえ『解析教程』は数学史上,数学の厳密化の始まりと位置づけられ,後年に大きな影響を及ぼすとともに,その後の解析学の教科書の規範となったのである.
翻訳について
翻訳の底本には『コーシー全集』の第二系列・第3巻に収められているものを用いたが,原典版も参照した.できる限り原文に忠実に訳出するように心掛け,術語が未成熟なためにわかりづらい表現になっているところも,脚註で意味を補うようにして,なるべく原文の形を損なわないようにした.特にコーシーの時代には「上極限」や「集積値」という術語がなかったので,これらを意味する箇所の訳出には苦労した(第6章§2定理Iの脚注参照).数式もほぼそのままの形で表記したが,n-1(上線)は(n-1),n=<mはn≦m,正割sec(eにアクサン)はsecとした.全集版にも原典版にもいくつかの誤りが見られたが,印刷上の誤りと数式の誤りには修正を加えた.また,ノートVで数式番号(7)と(8)が逆順になっているのは,翻訳の都合によるものである.
『解析教程』を翻訳するにあたってコーシーの術語に最も適切と思われる訳語を与えたが,コーシーの術語は当時一般に使われていた意味と異なっていたり,現代の術語とは意味が違っていたりすることがあるので,拾い読みをしても誤解が生じないように,訳語についていくつか注意をしておこうと思う.
すでに注意した通り,コーシーは数と量を明確に区別しているので,今日一般に数列と訳される語suiteの訳語には工夫が必要であった.この語は二つの意味に使われている.一つは量の列(suite des quantites),もう一つは数の列(suite des nombres)である.これらを区別するために前者は系列,後者は数列と訳した.前者の意味が現在の数列の意味になる.
第1章§3には「複合関数(fonction compose)」と「関数の関数(fonction de fonctions)」という語が出てくる.一般に前者は「合成関数」と訳されるが,コーシーの定義は今日の合成関数が意味するものより意味が広いので「複合関数」と訳した.後者の方が今日の合成関数の意味となる.「線形関数(fonction lineaire)」は,通常,「一次関数」と訳されることが多いが,コーシー自身が第1章の終わりのほうで,「(線形関数と呼ばれるのは)幾何学に応用する際,直線の縦座標を表すのにこれを利用するからである.」と述べているので,一貫して「線形関数」という訳語を当てた.
第2章§1の冒頭には無限小と減少に関する記述が見られる.
「変化量の数値が際限なく減少して極限0に向かっていくとき,この変化量は無限小になるという.このことについて,間断のない減少と際限のない減少を混同してはならないことに注意するべきである.」
ここで「間断のない減少(decroissement constant)」は単調減少を意味し,必ずしも0に近づくことは意味しない.それに対して「際限のない減少(decroissement indefini)」は,単調である必要はないが限りなく0に近づくことを意味する.
第2章§2では「連続関数(fonction continue)」の定義が与えられているが,当時,連続関数といえば,ただ一つの解析的表示式で表される関数を指すのが普通であった.コーシーの連続関数の意味は当時の連続関数の一般的な意味とはまったく異なるのである.「断絶(solution de continuite)」というのは不連続点を指す.虚関数の連続性については第8章§2に出てくるが,ここでも同じように訳語を与えた.
第6章の級数(serie)の表記はあたかも(現代の意味での)数列のような書き方である.これは脚注にも注意した通り,収束の問題があったためと思われる.コーシーは次のように述べて収束級数に限って現代のような級数の表記法を用いることを明言している.
「一般に,収束級数の和を,最初のいくつかの項の和の後に「…」をつけて表す.
したがって,級数
u_0, u_1, u_2, u_3, …
が収束するとき,この級数の和は
u_0+u_1+u_2+u_3+…
で表される.」(第6章§1)
第7章§2では虚表示式(expression imaginaire)の極形式,すなわち複素数の極形式について術語を定めている.
「虚表示式α+β√-1は
ρ(cosθ+√-1sinθ)
の形に帰着されるが,このとき,正の量ρはこの虚表示式のモジュールと呼ばれる.このモジュールを取り除いたあと残されるもの,すなわち,因子
cosθ+√-1sinθ
は,既約表示式と名づけられる.」
「モジュール(module)」は,たいてい「絶対値」と訳される.しかし実量(実数)の絶対値と虚表示式(複素数)の絶対値(module)では術語の使い分けがされている上,「絶対値」という語は(コーシーは使わなかったが)valeur absolueの訳語に相応しいと思えるので,moduleを「絶対値」とは訳さず読みをそのまま使うことにしたのである.「既約表示式」はexpression reduiteの訳語である.
第12章§1には「関係序列(echelle de relation)」という語が出てくる.
「一般に,ある限界を超えるすべてのnの値に対して,いくつかの連続するxの冪の係数
a_n, a_(n-1), a_(n-2), …, a_(n-m)
が一次方程式によって互いに結ばれているならば,級数
a_0, a_1x, a_2x^2, …, a_nx^n, …
は循環する.その方程式を
ka_(n-m)+la_(n-m+1)+…+pa_(n-1)+qa_n=0
としよう.ここで,k,l, …, p,qは定められた定量を表す.これらの定量の系列は,級数の関係序列と呼ばれるもの,すなわち定量そのものがその項になった序列となる.」
一般にechelle de relationは式
1+(p/q)x+…+(l/q)x^(m-1)+(k/q)x^m
を指して「関係率」と訳される.そこで,これと区別して「関係序列」という訳語を当てたのである.
ノートIIIに出てくるニコルソンの著書名『Essay on Involution and Evolution』は,この本の内容を知ることができなかったので,敢えて訳出はせず,そのままにしておいた.
謝辞
私が『解析教程』を読み始めたのは2007年の2月であった.コーシーの著作としてよく知られているにもかかわらず邦訳本はなく,日本語で読めるところといえば,高木貞治の『近世数学史談』に「序言」の一部が訳出されている程度であった.数学の厳密化の始まりとなったこの書物を多くの人たちに読める形にしたいと思い試行錯誤の末に訳稿を作りあげた.このことを九州大学の高瀬正仁先生にお話しをしたところ,翻訳原稿に目を通していただけることになった.このことは私にとって非常に力強い支えとなった.高瀬先生に訳稿を丁寧に点検していただいたおかげで,誤訳や不適切な表現を正し,より完成度の高い原稿を作ることができた.また訳本を作る上での有益なアドバイスと註釈のための数多くの情報を下さったうえに解説も執筆していただいた.『解析教程』の翻訳を完成できたのは高瀬先生の助けがあってこそである.また出版に際してはみみずく舎の和泉浩二郎氏のお手を煩わせた.ここでお世話になったお二人に感謝の意を表します.
*1) [参考文献]
C.-A.Valson “La vie et les travaux du Baron Cauchy” Gauthier-Villars (1868).
ブリュノベロスト(Bruno Belhoste)著,辻雄一訳『評伝コーシーフランス革命の大波とともに生きた数学者の生涯』森北出版(1998).
E.T. ベル(Eric Temple Bell)著,田中勇・銀林浩訳『数学をつくった人びと』〈上〉東京図書(1997).
*2) Traite de Mecanique celeste (1799-1825).
*3) Theorie des fonctions analytiques (1881).
*4) “Recherche sur les polyedres” Journal de l' Ecole Polytechnique, XVIe cahier, tome IX (1813)[コーシー全集,第二系列・第1巻,p.7-18].
*5) “Memoire sur le nombre des valeurs qu’une fonction peut acquerir lorsqu’on y permute de toutes les manieres possibles les quantites qu’elle renferme” Journal de l'Ecole polytechnique, XVII e cahier, tome X (1815)[コーシー全集,第二系列・第1 巻,p.64-90].
“Memoire sur les fonctions qui ne peuvent obtenir que deux valeurs egales et d
signes contraires par suite des transpositions operees entre les variables qu’elles renferment” Journal de l' Ecole polytechnique, XVIIe cahier, tome X (1815)[コーシー全集,第二系列・第1 巻,p.91-169].
*6) Institut de France. 1795 年10 月25 日に設立された国立学術団体で五つのアカデミー(アカデミー・フランセーズ/碑文・文芸アカデミー/科学アカデミー/芸術アカデミー/倫理・政治学アカデミー)からなる.
*7) “Memoire sur les integrales definies”[コーシー全集,第一系列・第1巻,p.319-506].
*8) “Theorie de la propagation des ondes a la surface d’un fluide pesant d’une profondeur indefinie”[コーシー全集,第一系列・第1巻,p.5-318].
*9) Oeuvres completes d’Augustin Cauchy, Gauthier-Villars et fils (1882-1974). 最近ではインターネットで閲覧できる.http://math-doc.ujf-grenoble.fr/OEUVRES/
*10) 1989年にJacques Gabay,2009年にCambridge University Pressから再版されている.
*11) Resume des lecons donnees a l’Ecole royale polytechnique sur le calcul infinitesimal(1823)[コーシー全集,第二系列・第4巻,p.9-261]. 邦訳書『コーシー微分積分学要論』小堀憲訳,共立出版(1969).
*12) Lecons sur le calcul differentiel (1829)[コーシー全集,第二系列・第4巻,p.265-609].
*13) Institutiones calculi differentialis cum eius usu in analysi finitorum ac doctrina serierum(1755)[オイラー全集,第一系列・第10巻].
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